『東海道五十三次』(隷書版)のなかに描かれた剣菱。
創業以来、その味を変えることなく現在まで継承され続けてきた剣菱。長い歴史のなかで、酒造家の交代や戦争、震災などさまざまな出来事に見舞われ、かつての造り手たちが残した記録の多くは失われました。それでも、こうして歴史を振り返ることができるのは、かつてのお客さまの“思い出”のワンシーンのなかで今も剣菱が生き続けているからこそ。さまざまなお客さまが、さまざまな思いで剣菱を飲み、ときに喜び、ときに涙し、ときに覚悟し、ときに失敗し……。時代ごとに環境や立場は違えど、剣菱は多くのお客さまの生活に寄り添って今日まで歩んできました。造り手と飲み手、その両者が500年かけて築いたドラマ。そして、その両者によってこれから築き上げられていくドラマ。それが、「剣菱の歩み」です。
永正2年(1505)以前
剣菱誕生のルーツを紐解くうえでの有力な手がかりが、江戸時代の文献『二千年袖鑒(そでかがみ)』。この文献には、伊丹の銘酒・稲寺屋(いなでらや)が永正2年に創業したことや、この文献が刊行された嘉永2年(1849)の時点ですでに345年の歴史があることなどが今も変わらぬロゴマークとともに記されている。ただ、文献のどこにも「剣菱」の二文字は見当たらない。その所以は、江戸後期の文豪・頼山陽(らいさんよう)の「江戸で評判になるにつれ、江戸の人々が(剣菱と)呼称し、結果として商標名になっていった」(長古堂記/ちょうこどうき)との記述から伺い知ることができる。では、永正2年の創業から300年以上もの間、このロゴマークを冠した酒はいったいなんと呼ばれていたのか?創業主・稲寺屋が精魂込めて醸造した酒の名とは……。その答えは、いまだ謎に包まれている。
参考文献:『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)
寛永11年(1634)
寛永11年、前年(寛永10年)に発生した大地震と各地の凶作による米価の高騰を抑制するため、幕府が酒造統制令を施行。これを皮切りに、幕府は次々と酒造に制限を設けるようになる。寛永19年(1642)の大飢饉と米価高騰の際には農村での酒造と農民への酒の販売を禁止し、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)の際には酒造を一時禁止。それを契機に酒造株(いわゆる酒造りの免許。これを持っていない者の酒造りを禁止し、さらに酒造株を持つ酒造人が酒造りにおいて消費できるお米の量の上限も定めた)を設定するなど、酒造統制の強化を押し進めた。江戸時代を通して発せられた酒造制限令は、実に61回。日本酒が現在に継承されているのは、そんな厳しい酒造統制のもとで酒造りに励んだ先人たちの努力と知恵の賜物ともいえる。
参考文献:『お酒の研究と資料』(伊丹酒造組合ホームページ)
寛文元年(1661)
寛文元年、それまで幕府の直轄領であった伊丹が貴族藤原氏の嫡流である五摂家筆頭・近衛(このえ)家の領地に。これが、伊丹酒発展の大きな要因のひとつとなった。領主となった近衛家は、酒造業を大いにバックアップ。ニセモノが出回ることを防ぐために精密な焼印を原産保証の印としたり、伊丹の酒造水の領外持ち出しを禁止するなど、もともと味の良さでは抜きん出ていた伊丹酒の品質の維持と向上に尽力した。その結果、卓越した品質に“近衛家お墨付き”という高貴なブランド力がプラス。伊丹酒は「極上酒」の名をひとり占めすることになっていく。
参考文献:『お酒の研究と資料』(伊丹酒造組合ホームページ)
寛文年間(1661〜1672)頃
酒の流通が馬による陸運から船による海運へと移行し、上方と江戸を行き来する伝法船(樽廻船)が就航するや、伊丹酒は江戸で大ブーム。「下り酒」(当時は現在と逆で、京都へ行くのが「上り」とされていた)と呼ばれて重宝され、「伊丹の酒、今朝飲みたい」(イタミノサケ、ケサノミタイ=上から読んでも下から読んでも同じ言葉)、「徳利(とっくり)のお土産なにより伊丹入り」(「伊丹」の地名と「痛み入る(恐縮です)」をかけた言葉あそび)などの言葉が江戸で流行語となった。ちなみに、元禄6年(1693)の江戸の総人口は推定60〜70万人。当時の「下り酒」の出荷量で全人口ひとりあたりの消費量を算出すると、なんと1年間で約4斗(一升瓶40本分)。江戸では上方から下ってこない酒のことを「下らない酒」と呼び、これが面白みのない物事を指す「くだらない」の語源であるといわれるほど、「下り酒」は江戸の人々を魅了した。
参考文献:『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)
『お酒の研究と資料』(伊丹酒造組合ホームページ)
元禄10年(1697)
元禄13年(1700)
元禄14年(1701)
元禄15年(1702 ※旧暦)
赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入り事件を題材にした歌舞伎『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』。江戸時代中期(寛延期)に歌舞伎化され、現在も歌舞伎の三大名作のひとつとして高い人気を誇る演目だが、そのなかの大星由良之助(主役/大石内蔵助がモデル)の「酒を持て」というセリフは、かつては「剣菱を持て」というセリフだったという説もある。真偽のほどは定かではないが、たしかに『仮名手本忠臣蔵』が上演されるようになった江戸中期以降の剣菱は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。日本酒の代名詞的存在であり、実際に「酒」と書いて「ケンビシ」と読まれることもあった。
参考文献:剣菱酒造の戦前の冊子
元文5年(1740)
元禄14年(1701)の稲寺屋事件の失態や享保期(1716〜1735)の米価低落が引き金となり、享保期以後、急速に衰退の一途をたどっていた稲寺屋。元文5年(1740)に将軍の御膳酒に指定されたことで起死回生……、と思いきや、そのわずか3年後に酒株を譲り渡し、酒造りの舞台から姿を消すことに。伊丹酒の繁栄とともに、酒造家として活躍でも失態でもその名を轟かせた稲寺屋治郎三郎。将軍の御膳酒に指定されたことを家業再興の足がかりとするつもりだったのか、それとも、家業廃業を前に酒造家として最後の意地を見せたかったのか、今となっては知る由もないが、とにもかくにも、御膳酒指定という名誉を最後に、波瀾万丈の“稲寺屋劇場”はその幕を下ろすこととなった。
参考文献:『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)