『東海道五十三次』(隷書版)のなかに描かれた剣菱。
創業以来、その味を変えることなく現在まで継承され続けてきた剣菱。長い歴史のなかで、酒造家の交代や戦争、震災などさまざまな出来事に見舞われ、かつての造り手たちが残した記録の多くは失われました。それでも、こうして歴史を振り返ることができるのは、かつてのお客さまの“思い出”のワンシーンのなかで今も剣菱が生き続けているからこそ。さまざまなお客さまが、さまざまな思いで剣菱を飲み、ときに喜び、ときに涙し、ときに覚悟し、ときに失敗し……。時代ごとに環境や立場は違えど、剣菱は多くのお客さまの生活に寄り添って今日まで歩んできました。造り手と飲み手、その両者が500年かけて築いたドラマ。そして、その両者によってこれから築き上げられていくドラマ。それが、「剣菱の歩み」です。
寛保3年(1743)
稲寺屋(いなでらや)から剣菱を受け継いだのが、大鹿村(現在の伊丹市中央部付近)で酒造りに励んでいた津国屋(つのくにや)の当主・坂上桐蔭(さかのうえのとういん)。大鹿村で山の流麗水を汲んで酒を醸造していた坂上桐蔭は、伊丹に酒造りの場を移して剣菱を継承したあとも、そんな「水」にこだわる心意気を変えまいという決意を剣菱のラベルに印した。それが「瀧水(たきみず)」の二文字。坂上桐蔭の水にかける情熱の証ともいうべきこの二文字は、現在もそのまま受け継がれている。さらに、坂上桐蔭には水にまつわるこんなエピソードも。剣菱を造るための仕込み用水の井戸替え(井戸の掃除)をしていたところ、井戸の底から不動明王像が。それがきっかけで、「上部が男性、下部が女性の象徴」とされていた従来のロゴの由来に、「不動明王の右手に握られている降魔(ごうま)の剣の刀身と鍔(つば)の形を模した」という新たな由来が追加。これもまた、坂上桐蔭の水へのこだわりが生んだ逸話であり、そして、そのこだわりがのちの津国屋の一大繁栄へとつながっていく。
参考文献:剣菱酒造の戦前の冊子
『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)
江戸時代のラベルと、現在のラベル。どちらにも「瀧水」の二文字は刻まれている。
寛延3年(1750)
寛延3年に江戸積み酒造人のひとりに名を連ねた津国屋は、剣菱中興の醸主としてその手腕を大いに発揮。“坂上の剣菱”の隆盛ぶりは、江戸時代の資料からも伺い知ることができる。まずは『江戸流行名酒番付』。津国屋が剣菱を受け継いで間もないころに刊行されたと推定されるこの番付では、「坂上」の名と剣菱のロゴマークが東の大関の地位に堂々名を連ねている。さらにその約100年後、天保14年~弘化3年(1843~1846)ごろに歌川広重によって描かれた『太平喜餅酒多多買』(たいへいきもちさけたたかい/当時の江戸庶民に人気のあった餅[菓子]と酒が擬人化され、合戦を繰り広げる錦絵)でも、剣菱が酒軍の大将として君臨。つまり、津国屋が情熱を注いで醸し続けた剣菱は、100年以上もの間“名酒の代表格”としての地位を守り続けたことになる。
文化文政期(1804~1829)
文化文政期に「下り酒」は最盛期を迎え、江戸への積み出し樽数が年間100万樽を超えるなど過去最高に達した。その主流は伊丹の酒から灘の酒へと移っていたものの、伊丹酒も文化元年(1804)には27万樽と過去最高値を更新。なかでも剣菱は、「後世に及び、剣菱の名独り海内に轟き、大凡(おおよそ)酒価の昂低(こうてい=高低)は、一に剣菱を以て、其の標準を為すに至れり」(灘酒史[明治43年発行])、つまり酒の価格を決めるうえでの基準になるほどの人気を博していた。剣菱の“愛されている風景”は、江戸時代の娯楽文化のなかにも垣間見ることができる。
参考文献:『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)
浮世絵『東海道五十三次』(隷書版)の「日本橋」には、橋の後方を行く2人組が担ぐ樽に剣菱の“顔”ともいうべきロゴマークが。さらに、当時の歌舞伎役者やその舞台の様子を描いた役者絵『でつち寝太郎』『杉さかやばゞお熊』や、酒・味噌・醤油などを商った江戸の大問屋「高崎屋」の繁栄ぶりを描いた『高崎屋絵図』の店前に剣菱の菰樽が描かれていることからも、剣菱が庶民の生活に根づいていたことが伺える。
剣菱のしみわたるような旨さと、なけなしのお金をはたいて剣菱を飲むことの代償を「剣」にちなんで「腹をえぐるように利く」と詠んだ川柳。
剣菱を一杯ひっかけて酔って橋(路上)で寝る、という意味ではなく、剣菱の菰を布団代わりに掛けて路上で寝ている人のことを詠んだ川柳。剣菱は将軍から路上生活者まで、樽の中身から外側まで愛された酒だったことがわかる。
その他にも、「花はさくら木酒は剣菱」「剣菱を墓へかけたき呑仲間」「からしするそばへ剣菱持て来る」などなど、剣菱のことを詠んだユーモアあふれる川柳が数多く存在する。
参考文献:『お酒の研究と資料』(伊丹酒造組合ホームページ)
文化10年(1813)
文政10年(1827)
文豪としても酒豪としても名高い江戸後期の漢詩人・頼山陽(らいさんよう)。彼もまた剣菱の愛飲者のひとりであり、津国屋とは頻繁に手紙でやりとりするほどの仲だったといわれている。そんな頼山陽が執筆した『長古堂記(ちょうこどうき)』には、剣菱のロゴについて、他社が奇をてらって毎月銘柄を変えるところ、「墨くろぐろと縦、横一筆ずつ剣の刃先と菱形を書き、昔から改められたことがない」との記述が。さらに、このことが剣菱の酒造りに対する姿勢そのものを表しており、希薄なものが目まぐるしく移り変わる世で「質実であれば変動せず、変動しなければ永続する」と剣菱が長寿であることの所以を説いた。ちなみに、頼山陽は前年、幕末の尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に多大な影響を与えたベストセラー『日本外史』を完成させているのだが、大隈重信とともに東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に関与した頼山陽研究の第一人者・市島春城(謙吉)は、その執筆についてこう語っている。「頼山陽は『日本外史』執筆中、常にかたわらに剣菱を備え、その執筆内容が幕府の忌避に触れることを怖れて筆の動きが鈍ったときには、剣菱をチビチビと飲んでいた」と。
参考文献:『酒香随筆』(市島春城著)
天保4年(1833)
天保12年(1841)
弘化元年~嘉永5年(1844~1852)頃
江戸時代後期の思想家・政治家にして、維新志士たちに大きな影響を与えた藤田東湖。彼は『瓢貧歌(ひょうひんか)』のなかで「1斗の剣菱を傾けると、なにさま天下の銘醸のこととて、えもいわれぬ酔い心地になって憂鬱も消えてなくなり、のどかな気分になる。さすがに剣菱という名を持っているだけあって、心のなかに積み重なる愁いを衝き破る鋭い力はまったく神品である」と剣菱をたたえたうえで、「古くから酒というものは清貧(私欲を捨てて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること)の人士に付きもので、酒の本当の味を理解できるのは自分たち清貧の志士である」と詠じている。“将軍の御膳酒”から“清貧の志士たちの酒”へ。時代の移り変わりとともに、剣菱の“愛され方”も確実に変わっていきつつあった。
参考文献:『酒香随筆』(市島春城著)
嘉永6年(1853)
安政6年~文久2年(1859~1862)頃
土佐藩の15代藩主にして、幕末の四賢候(しけんこう)のひとりにも数えられる山内容堂(豊信)もまた、剣菱の愛飲者だった。彼は『剣菱賦』のなかで、「剣菱にあらずんば即ち飲むべからず」「(剣菱は)何物にも代えがたい宝」「(剣菱のロゴの)輝きは北斗七星よりもまばゆく感じられる」などなど、とにかく剣菱を絶賛。また、山内容堂といえば、伊豆下田・宝福寺での勝海舟との会談で坂本龍馬の脱藩を許したエピソードがよく知られている。勝海舟の直談判に対し、山内容堂は勝海舟が酒を飲めないことを知りながら「ならば、この酒を飲み干してみよ!」と応酬。勝海舟がためらうことなく朱の大杯を飲み干すのを見た山内容堂は、坂本龍馬を許す証として自らの白扇に瓢箪を描き、そのなかに「歳酔(にふ)三百六十回(=1年中[360日]酔っぱらっているという意味) 鯨海酔侯(げいかいすいこう/山内容堂のいわばペンネーム)」と記して勝海舟に手渡したといわれている。さらに、宝福寺にはもうひとり、剣菱ゆかりの人物が。それが“唐人お吉”こと斎藤きち。幕末の動乱のなか悲劇の人生を送った彼女は「どうせ正気じゃ世渡りできぬ ままよ剣菱 鬼ごろし」という言葉を残している。世の中が大きく変わろうとしていた時代、庶民の怒りや不安の鎮静に、そして維新志士たちの士気向上にと、さまざまな人々に対し、さまざまな役割を果たした剣菱。幕末に剣菱がなかったら、もしかしたら歴史が変わっていた、かもしれない。
参考文献:土佐山内家宝物資料館(剣菱賦)
『坂本龍馬と宝福寺』(宝福寺ホームページ)
『唐人お吉物語』(竹岡範男著)
慶応元年(1865)
幕府の厳格な酒造統制や蔵の焼失、さらに当主の病死など、江戸時代後期から幕末にかけて幾多の困難に見舞われた津国屋。それでも酒造りに奔走し、津国屋が世に送り出し続けた剣菱は維新の志士たちにも支持され、彼らを大いに奮い立たせた。しかし、皮肉なことに、そんな幕末の志士たちが成し遂げた維新により、その後の津国屋の運命は大きく左右されることになる。ときまさに日本の夜明け前……。文明開化の音とともに、津国屋を揺るがす激動の宿命の足音も目の前に迫りつつあった。
参考文献:剣菱古文書
『伊丹市史』
剣菱酒造の戦前の冊子