『東海道五十三次』(隷書版)のなかに描かれた剣菱。
創業以来、その味を変えることなく現在まで継承され続けてきた剣菱。長い歴史のなかで、酒造家の交代や戦争、震災などさまざまな出来事に見舞われ、かつての造り手たちが残した記録の多くは失われました。それでも、こうして歴史を振り返ることができるのは、かつてのお客さまの“思い出”のワンシーンのなかで今も剣菱が生き続けているからこそ。さまざまなお客さまが、さまざまな思いで剣菱を飲み、ときに喜び、ときに涙し、ときに覚悟し、ときに失敗し……。時代ごとに環境や立場は違えど、剣菱は多くのお客さまの生活に寄り添って今日まで歩んできました。造り手と飲み手、その両者が500年かけて築いたドラマ。そして、その両者によってこれから築き上げられていくドラマ。それが、「剣菱の歩み」です。
慶応4年(明治元年/1868)
慶応3年に幕府に代わって政治の実権を握るも、翌慶応4年の鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争の勃発により、旧幕府軍との戦いに莫大な出費を余儀なくされた明治新政府。税収の増大を図ることが急務となり、目をつけたのが酒だった。新政府は慶応4年に発令した酒造規則五ヵ条のなかで、旧幕府時代の酒造株(酒造りの免許)を酒造鑑札として新たに書き換えるよう酒造家に指示。その書換料として旧株鑑札高100石につき金20両を徴収することを明らかにした。ちなみに、鑑札書換後の津国屋(つのくにや)の鑑札高は1万158石。つまり、2000両を超える書換料を納付したことになる。有力酒造家にとっては多額の出費となったが、それでも徴収に応じたのは、新政府があらゆる商売の自由化を押し進めるなか、酒造業においてはその鑑札が“永世の営業特権”として保証されることを期待してのことだった
参考文献:『伊丹市史』
明治2年〜明治3年(1869〜1870)
日本にビール産業が発祥したころ、日本酒業界には『酒造伝書茶仕立覚』なる伝書が……。これは、いわゆる酒直し(当時の酒は劣化が早く、薬草などを調合することで酒を直すことも多かった)のマニュアルなのだが、興味深いのは、調合によってブランド酒へと“直す”、言い方を変えれば“ニセモノ”の造り方まで記載されているという点。そのなかに剣菱もあり、「極上剣菱飛天製造」なる項目によれば、酒に牡蠣殻灰、マグネシウム、漢方薬、コショウなどの薬味を混ぜ、さらにのこぎりの木屑などで木の香りを加えると剣菱になる、とのこと。当然、ホンモノの剣菱とはなんの関係もない非公認のものであるが、需要がなければ“もどき”が造られるはずもなく、そういう意味では当時の剣菱の人気を示す“貴重な資料”ともいえる。さらにもうひとつ、この伝書には他にも名だたる銘酒“もどき”の造り方が記載されているのだが、味を再現するために調合する薬味の数は剣菱の16種類が最多。これもまた、剣菱の味わい深さを裏付けている……、のかもしれない。
参考文献:歴史研究の最前線Vol.13『資料で酒を味わう』(岩淵令治・青木隆浩編)
明治5年(1872)
江戸時代、剣菱を“日本酒の代表格”へと押し上げ、慶応4年(明治元年)の酒造規則五ヵ条発令後も1万石の鑑札高と酒造蔵6蔵を所有するなど、剣菱造りに執念を燃やし続けた津国屋。にもかかわらず、明治5年に酒造業から手を引くことになったのは、前年(明治4年[1871])に政府が制定した新規則の影響が大きい。この規則は、従来の鑑札を没収して新鑑札を発行、さらにその後は新規免許料金10両と稼人ひとりにつき金5両、売値の5%の醸造税を払えば誰でも酒造経営ができるという、既存酒造家の営業特権の全廃と営業自由の原則を貫徹したもの。地方に新たな酒造家を多数輩出する契機となった一方で、多額の資金を投じて書き換えた酒造鑑札をわずか3年で没収されるハメになった有力酒造家にとっては大打撃となった。この新規則をきっかけに、伊丹では25人の酒造家が明治5年に廃業、代わって18人の新規酒造家が登場。剣菱のバトンも、近代化の大波に飲み込まれた津国屋から、近代化の大波に乗って登場した新しい時代の酒造家・稲野利三郎(いなのりさぶろう)へと受け継がれることとなった。
参考文献:『伊丹市史』
明治20年(1887)
明治21年(1888)
明治30年(1897)
明治34年(1901)
新規参入の酒造家ながら明治20年に伊丹酒造家のなかで造石高トップと大躍進、伊丹酒造改良会社設立の際は発起人として名を連ね、明治30年にはトップの座こそ明け渡すも自らの造石高は増加させるなど、実績だけ見れば順風満帆に見える稲野利三郎の酒造り。しかし、実際は必ずしもそうではなかった。その大きな要因のひとつが、増税の重圧による伊丹酒造業そのものの衰退。稲野利三郎が酒造業に参入後も酒税制度は度々改正され、明治11年(1878)に導入された造石税は、稲野利三郎が廃業する明治34年までに当初の15倍に引き上げられている。また、酒造における技術的遅れも否めなかった。伊丹酒造家のなかで上位とはいえ、明治20年の伊丹全体の造石高は全国の造石高のわずか0.7%に過ぎず、明治34年には0.3%以下にまで減少。対照的に、酒税の面では同条件だった灘五郷は明治初頭以降、順調に造石高を増加。明治34年には全国の造石高の9%を占めるなど、かつて摂津十二郷としてともに江戸を席巻した灘酒に決定的な格差をつけられていた。少しでも遅れを取り戻そうと、利益度外視で技術改革に注力した伊丹酒造改良会社も思うように実を結ばず、加えて背後からは、まだ脅威とまでは至らずも確実にシェアを拡大するビール産業の足音……。稲野利三郎が廃業に至った真意は定かではないが、“新時代の申し子”として酒造業に参入した酒造家を以てしても追いつけないほどのスピードで、近代化の時計の針が進んでいたのはたしかだった。
参考文献:『伊丹市史』
明治42年(1909)
丸屋の屋号で伊丹酒黎明期から酒造業をけん引し、井原西鶴の『西鶴織留(さいかくおりどめ)』(元禄7年/1694)にもその名(屋号)が登場するほどの有力酒造家だった池上茂兵衛(いけがみもへえ)。剣菱にとっては稲寺屋時代から互いにしのぎを削り続けてきたライバルであり、互いの歩みをもっとも近くで見続けてきた盟友でもある。伊丹酒造業が衰退の一途をたどるなか、そんな池上茂兵衛が剣菱のバトンを継承したという点に、その覚悟が見え隠れする。江戸時代にその名を轟かせた丸屋も、剣菱を受け継いだ明治42年、池上茂兵衛の造石高はわずか1393石。かつて井原西鶴に「津の国の隠れ里(=伊丹)が酒の名所であることは、もはや世に隠しようがない」とまで歌われた伊丹は、ランプ口金や綿ネル、由多加織、マッチなどの工場が建つ近代産業の街へと大きく変貌を遂げていた。明治のはじめには40人いた酒造家も、明治42年には14人にまで減少。それでも池上茂兵衛は、“丹醸(たんじょう)”の意地と誇りを胸に、廃業に至るまで、伊丹の地で、伊丹の銘酒として剣菱を造り続けた。
参考文献:『伊丹市史』
『丹醸銘酒剣菱への旅』(山東京伝著)
大正元年(1912)
大正7年(1918)
昭和元年(1926)
昭和元年、池上茂兵衛(茂代)が廃業。ここに、創業以来続いた伊丹の地における剣菱造りに終止符が打たれることとなった。明治~大正にかけては、剣菱史上もっともめまぐるしく酒造家が交代した時代であると同時に、もっとも資料が少ない時代でもあり、不明な点が多くある。でも、たしかなことが2つ。ひとつは、明治中期に4000石を超えていた剣菱の造石高が大正末には1000石以下まで減少したこと。もうひとつは、それでも剣菱のバトンが繋がれたこと。新しい時代の幕開けとともに、新しい舞台で新たなスタートを切ることとなった剣菱は、数々の苦境を乗り越え昭和後期以降ふたたび大きく息を吹き返すことになるが、その発展は、衰退期にも最後の最後まで剣菱を諦めなかった酒造家たちの、伊丹に対する、そして、その伊丹が生んだ銘酒・剣菱に対する誇りや愛情のうえに築かれたものといえる。
参考文献:『伊丹市史』